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沿革(あゆみ) イラスト

沿革(あゆみ)

 宮田村に人が住み始めた歴史は古く、村の台地上や山麓の小扇状地からは原始時代から連綿と続く多くの集落の跡が見つかっています。特に中越遺跡からは、今から六千年以上前、縄文時代前期初頭の三百軒を超える密集した家の跡がたくさんの「中越式」土器と共に発見されており、そのころすでにこの宮田の地が独自の文化圏の中心として栄えていたことがわかります。
 
 歴史上「宮田」の地名が初めて出てくるのは、平安時代の西暦927年にまとめられた延喜式(古代の法典の一つ)の中に出てくる東山道の駅名の一つであることはあまりにも有名で、十疋ほどの馬が常駐する駅があり、少なくともそこに勤める人たちが住む集落があったはずなのですが、それがこの地域のどこにあったかは今だ特定されていませんし、保延二年(西暦1136年)の宮田村司の解状で明らかとなった「十八町歩の田を耕作する二十数戸の集落が、米の代わりに麻布を納め」ていたという”宮田村”も、古い集落の下からは見つかっていないことから、この地にあった、多くとも数十戸程の集落が住むのに適した土地を求めてエリア内を転々とするという、はるか縄文時代から続く生活スタイルは、中世の終わりころまで続いていたようです。
 
 この状況は戦国時代から江戸時代の初めに一変します。その原因は大規模な土木工事を行って黒川や太田切川から水が引かれ、平地部の多くが水田となり、豊かな穀倉地帯が開かれたことと、伊那街道の整備が進められる中で、小田切川と大沢川に挟まれた台地の上に宿場が置かれたことにあります。元禄三年(西暦1690年)の検地結果にある、水田116町歩、畑159町歩、総数200軒という集落規模は、この時期にほぼ獲得したものですし、現在まで続く定住生活もまたこのとき確立したのです。
 
 中でも宿場が設置されたことは重要な出来事であり、飯田藩主が参勤交代で江戸へ向かうとき、距離的にちょうど宿泊地をこの地としたことや、ここが太田切川という荒れ川の瀬越し地点であったことから、伊那街道の交通の要衝という性格を持つようになります。宿場には大名が宿泊するための施設として本陣が置かれ、藩役人が出張してきたときの臨時の役所や休憩所、会合場所としても使われました。

 江戸時代の宮田は大きく宮田村と中越村に分かれていました。そのうち宮田村は、宿場のある町割と、北割、南割に分かれて独立し、宮田三か村とも呼ばれており、幕末に一時新田と大田切が分村しますが、明治6年(西暦1873年)合併して宮田村となり、さらに明治8年には宮田村と中越村が合併して今の宮田村が出来上がります。

 明治時代に入ると、県下に先駆けて外国製の機械を導入するなど、小田切川をはじめとする村内河川を利用した規模の大きい製糸工場が数多く営まれました。結果としてその跡地に、第二次世界大戦前に各種工場が疎開し、工業立村の礎となったのです。

 その後もいち早く全村下水道を実現し、宮田方式とほこれる集団営農を確立し、人口一万人を目指した宅地整備の推進、農業や林業を基盤とした観光事業を展開するなど、新たな村づくりが模索されています。

 なお、昭和29年(西暦1954年)に町制の施行後、同年赤穂町、中沢村、伊那村と合併して駒ヶ根市宮田となったものの、昭和31年、分市して再び宮田村となっています。

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